예수님의 관심사 눅4:18-19
「イエス様の関心事」 ルカの福音書4:18-19
人は職業、仕事が何かによって物を見る視覚がみな違います。
私の上の兄は衣類の業界におりますが, 以前に洋品店を経営していました。それだからか、全く人の服ばかりを見て回っていたというのです。あの人は間違って服を着ていた、肩があがっていたとかどうとか、また、一度は、美容室を経営する信徒と歩いていましたが、全く人の頭の話しかしませんでした。それゆえに、口は職業をごまかせないというようです。
みなさん、私の目には何が見えているかお分かりですか? 私が第一教会に赴任して来る前には、教会堂の建築に関心がありました。ゆえに「良い建物がどこかにないかなあ」と、車に乗っていても、道を歩いていても,もし道端に不動産屋があれば、どこか良い建物が出てきていないものだろうか!全くその考えしかありませんでした。
ところで、私が第一教会に赴任して以来、私の主だった関心は、もはや建物にはありません。なぜならばすでに私たちの教会は建物がある教会堂だからです。今や私の関心は、どうすれば私たちの教会が復興するのだろうか? これが最大の関心事となっています。ゆえに、礼拝の出席にたくさん気を使って強調をしています。そして、こうすれば復興するだろうか、ああすれば復興するだろうか? 私たちの教会の中で復興を成し遂げられる隠れた要素は何であろうか?また、復興のために変えなければならないものは何であろうか? こうした考えで頭が一杯です。また、日本の宣教師の一人としてどうすれば一人でもより多くの日本人に福音を伝えられる機会があるのだろうか? 一人でもより多く教会に歩みを運ばせることが出来る方法はないものだろうか?と思いながら私なりにお祈りしながらあれこれと思いをめぐらせてもみます。
前任の牧師先生たちが、過去に私たち第一教会の復興のために育くまれたこの教会をどうすれば神様がよりお喜びになり、楽しまれる教会とすることが出来るのだろうか?これが関心事なのです。
それゆえに、これから私が変な話をふとすることもありえるでしょう。それなので、「牧師様はどうしてそんなことを言うの?」と言わずに、教会の復興を望む私の気持ちを皆さんが知り、理解してくださり、また助けてくださることをお願いします。
皆さんの眼には何が見えますか?こじきの目は全て食べ物と道端に何が落ちているのかを見るために地面ばかりに向かっており、怠ける人間は空からなにかが落ちてこないかなと空ばかり眺めてくらします。
新車を買おうという人には全くその目には車しか見えません。その人間の心のなかに何があるのかによって関心を持つ部分が違うという話です。
しかしながら、イエスを信ずる私たちにおいての最大の関心事はイエス様になければならないと信じています。どうすればイエス様と同じように生きられるのか? どのようにすれば私もイエス様のように考え、語り、行動することができるのだろうか? これが私たちの関心事でなければならないと信じます。
夫婦が幸せに暮らしてゆくためには関心事が同じでなければなりません。夫婦が話しあいながらもお互い違うことを言い合っていればその家庭の中では戦いや争いが多くならざるを得ません。
同じ関心を持ってこそ一つの方向に上手く走ってゆくことが出来るのです。聖書では私たちを新婦として、イエス様を新郎として例えています。ゆえに新郎になられたイエス様と私たちが幸せに暮らしてゆくためにはイエス様の関心事を私たちの関心事として考えなければならないと信じます。それがまさにイエス様の心を私の心として持つことなのです。
私たちは人生を送りながら、神様を自分の味方として生きてゆこうとする人々が多いのに気がつきます。お互い同士で、神様を自分の味方に引き入れようとします。ある人は雨が降らないことを祈り、あるひとは雨が降ることを祈り、お互いに自分の祈りを聞いて欲しいと思います。ある男性がライオンに追われていました。しばらく逃げていると男性はふと袋小路にたどり着いてしまいました。緊迫した状況で男性は祈りました。「神様、どうか、私を追ってくるライオンに信仰をお与えください。」すると、ひと口で男性を喰べてしまうかのごとく走りこんできたライオンが突然止まったのです。男性はこれを見て安堵のため息をつきました。その瞬間、ライオンがおとなしく男性の方に近づいて来て、祈りました。「今日も日用の糧をお与えくださり感謝いたします。アーメン!」と言ったそうです。
双方で、自分の方ばかりを考えます。 神様を自分の味方に引き入れようとします。それゆえにうまく行きません。神様は、自分の味方になってくれもしますが、あるときは相手方に立っていらっしゃるようなときもあります。このようなときにはどうすれば良いのでしょうか?方法がひとつあります。私たちが神様の側に行けばよいのです。私が、自分が神様の味方となれば穏やかになります。すべてのものが整理されます。解決されます。自分の考えを変え、自分の言葉を変え、自分の祈りを変え、自分の生活を変え、自分の関心を変えればよいのです。事神様を自分の味方とするのか、しないのか?が重要なのではなく、神様と私自身が一緒にいるということが大切なのです。
皆さん!神様を自分の味方とすることより、自分が神様の側に立つことの方がずっとやさしく、速やかで簡単な方法であるという事実を覚えてくださることを願います。
それゆえに、今日はイエス様の関心事について考えてください。イエス様が何に関心を持っていらっしゃるのか、そして私たちも同一の関心をもてば私たちはイエス様の側に立っている者となれると信じます。
今日の本文ではイエス様はどこに関心を置いていらっしゃると書いてありますか?
1. 貧しい人々です。
これは、貧しい者に福音を伝えようと語った言葉です。 みなさん、貧しい者とはだれでしょうか?不足している人々です。だれかの助けが必要な人々です。不足を感じている人々です。恵みが必要な人々です。ゆえにここで言う貧しさとはお金があるかないかの貧しさではありません。イエス様は山上の垂訓で貧しさについて語る際に「霊が貧しい者」について語られました。
私たちの暮らしにおいて、皆さんはすべてが満たされていますか?
あるこじきが教会にやって来て乱暴にふるまいます。聖書に貧しい人々の面倒を見るように書いてあるが、どうしてお金をこれしかくれないのか?といいながらかえって大声を立てています。こうした人は貧しい人ではありません。また、自分自身ではなにもしないのに他人の力でのみ生きてゆこうとする人々もいます。こうした怠慢によって生きるのが大変な人々も貧しい人々ではありません。
本当に貧しい者とは自分の力で全てをやり尽くして見たにもかかわらずゆまく行かない人々のことなのです。自分の能力では、自分の環境ではだめな人々に主は福音をお伝えになり、語り掛けられます。
福音は自分の足りなさを感じる人々の耳に聞かれるものです。 全てを手に入れたという傲慢な者には、私には足りないものはないと言う者には福音は聞かれません。
あるお金持ちの青年がおりました。その青年は永遠の命について関心を持っていました。それゆえにイエス様のところに来て言いました。「先生、どうすれば永遠の命を手に入れられますか?」と。「お前の財産をみな売り払い、貧しい人々に施し与えて私のあとに従いなさい」と、イエス様のこの一言に金持ちの青年は持っていたものがあまりにも多すぎたため、
憂いながら帰ったといいます。
持ち物が多すぎる人の耳には福音が聞かれないのです。
上野公園で毎週火曜日に福音を伝えています。そこにいる人々はのどの渇いた人々です。彼らは、かつて正常に自己に足りないものがない人生を生きているときには関心すらなかった福音をもはや今、自分の力ではどうすることもできない野宿の身になると福音に耳をかたむけるようになったのです。
皆さんが主の前でにおいて、貧しき心の霊をもたなければどんなみ言葉が聞こえたとしても心の中にまでは迫ってはこないのです。まったく同じ場所で全く同じ福音を耳にしてもそれが心の霊の中で聞こえる人がいる反面、耳のまわりでのみ言葉が聞こえて回るだけの人々もいるのです。問題は、私自身が心の霊の貧しさを持っているのか、心の傲慢を持っているのか、にかかっているのです。一週間の間、休むことなく働きながらも、さまざまな悲しい思いをしながらも、苦しみながらも、水曜礼拝も、金曜祈祷会も,夜明けの祈祷会にも行けない自分の姿を残念に思いながらも「どうにか、私には主日のこの一時間の礼拝時間だけがささげられる最善の時間です」と言うならば、その人は今ささげている主日礼拝のこの一時間の間にどれくらい魂に渇きをもっているでしょうか。こうした人にこそ福があると聖書は言います。天国はその人の者であると語ります。
皆さん、心の霊の貧しさを持ってください。イエス様は心の霊が貧しい者に関心があるといいます。
2. 囚われた者です。
主のもうひとつの関心は囚われた者にあります。ここで言う囚われた者たちというのは、戦争の捕虜を意味します。今日のイエス様がお読みとなったみ言葉はイザヤ書のみ言葉ですが、イスラエルと周辺国家とのその数多い戦争によって捕虜として捕らえられていった多くの人々がいましたが、イスラエルを回復なさるときにこの捕虜となった人々が自由を得るようになるだろうということです。
今日では、私たちが霊的な戦争を行っていますが,こうした霊的な戦争の中で悪い霊に捕まり捕虜となった人々がいます。世の中との戦いの中で世の中の捕虜となった人々がいます。自分の意志との戦いで捕虜となった人々がいます。より具体的に言えば酒の虜となった人々、タバコの虜となった人々、肉の情欲の虜となった人々、お金の虜となった人々、ギャンブルの虜となった人々,パチンコの虜となった人々,権力の虜となった人々、そして最近ではコンピューターゲームの虜となった人々もいます。進んで自分自身を、私は悪霊の虜となったという人々もいます。 これではだめだ、だめだと言いながらもはまり込んでゆく人々もいます。彼らは、自らの力ではこの囚われの身から自由になりえません。外部的な力があってこそ自由を得られる人々がまさにこの囚われた者たちなのです。この際に、主が彼らを自由になさると語られます。そうです。どれほど多くの人々が、イエスの中で信仰生活を通じて今まで罪の虜となっていた魂が、自由さを手に入れた人々がどれほど多くいたのか知れません。どれくらい多くの証(あかし)があふれ出てきたか知れません。それまでは酒を飲まなければ一日と暮らせなかった人々が今や酒の名前を聞いただけでも吐き気を催す人々もいます。
イエス様はどんな類の捕虜もみな解放してくださる能力をお持ちでいらっしゃると信じます。イエス様が皆さんがもどかしく苦しんでいるその問題を解いてくださり自由にしてくださいます。
皆さんの中のどこかに、虜となり、自分の意志ではとうてい抜け出せない状態にある方はいらっしゃいますか?主は自由を下さります。誠の心で完全に主を信じてくださることお願いします。主が自由とさせてくださいます。
3. 目が見えない者です。
当時は、盲人が非常に多かったそうです. 非衛生的な環境が人々の目を見えなくさせたことが多かったのです。
それゆえにイエス様の仕事のなかで、とりわけ目が見えない人々を治す仕事が多かったのを私たちは知っています。
目の見えない者たちとは前を見ることができない人々のことです。目とは単純に肉体の目だけをさすのではなく私たちの霊魂の目が暗くなった人々もいっしょに含みます。霊の目が暗くなった人は神様を見ることは出来ません。神様を見ることのできない人々は世の中を心のままに生きてゆきます。自分勝手に生きてゆきます。神様はどこにいるというのかと言いながら、思いの限り、罪を犯しながら生きてゆきます。彼らは神様を恐れることがないので世の中での生活もいいかげんにしているのです。
お金に目がない人々、名誉に目がない人々、成功に目がない人々,こうした人々が人を見分けることが出来ずに生きています。しかし霊の目を開けた人々は神様を恐れながら生きています。天が恐ろしくないのか?と問いながら、罪を回避して行きます。今日、イエス様はこうした目が見えない人々の目を見えるようにすると語っていらっしゃいます。
そうです。主は私たちの霊の目を開かせてくださり、神様を眺めるようにさせると言います。神様がお創りになった全てのものの大切さに目を向けさせると言います。目の前にある人々を眺められるようにしてくださります。ゆえに、ないがしろにし、卑しく扱い、馬鹿にしていた人々を大切に感じ、愛し、お互いに助け合えるようにしてくださるというのです。
4. 抑圧された者です。
イスラエルは今、ローマの植民地としてあります。彼ら(人々)は今、ローマの権力に押さえつけられている状態です。自分の意志を示せず、ただ、命令されればされるとおりにしなければならない身上です。自分の意志がありません。この状態はどんな状態でしょうか?この地ではどれほど多くの人々が罪を犯すことに抑圧されて生きているのか知れません。罪の荷は私たちを重くさせ、私たちの霊魂を押さえつけてしまします。全ての生きる気力を喪失させ、意欲を失わせてしまいます。この地に無気力に暮らしてゆく数多くの人々、彼らに主は自由を与えると語られます。そのことの目的で主は十字架で亡くなることにより、私たちの全ての罪の荷を軽くしてくださりました。賛美歌の326番 「罪の重荷に押しつぶされた者よ、みな主のもとに出よ。主のみ言葉にすがるとき、すぐにやすらぎを得ん。やすらぎを得ん。すがれ、すがれ、主にすがれ、救わん、救わん、すぐに救わん。」。そうです。
私たちのどんな罪もイエスの前に出れば自由さを得ます。ハレルヤ、皆さんの生活のなかで罪を犯すことによって意欲を失った方々はいらっしゃいますか?人生の重い生活苦の荷によって押しつぶされた人々がいらっしゃいますか?主が自由にしてくださいます。主の前に荷をおろしてくださることを願います。
愛する皆さん。
皆さんの関心はどこにありますか?こんにち、イエス様が関心をお持ちになり、見守ってくださる魂たち,そしてその人生の問題を解決してくださるそのイエス様の関心はまさに私たち自身です。私たちの姿は貧しく,私たちの姿は盲目で,私たちの姿は囚われの身で,私たちの姿は抑圧されていませんか?だれも私を振り返らず、だれも私に関心もなく、この地で疎外された状態で生き、消滅してしまうかもしれなかった私たちの人生を、主は関心を持ってくださいました。 ゆえに私たちに福音を与え、目を開かせ、自由を下さりました。 今や私たちは救われた神様の子女となり、自由の身となり主を眺めるようになりました。
この恩恵と恩寵を、この恵みを 今、わたしたちはどのようにしなければなりませんか?
今、主が私たちにお願いしています。私たちの関心をこの地にある貧しき霊魂、盲目の霊魂、虜となり、抑圧された霊魂たちに注がなければならないと信じます。
主が私たちにお願いしたのがまさにこのことなのです。
この地にある、私たちの関心と愛情を求める貧しき霊魂、盲目の霊魂、抑圧された霊魂に向けなければなりません。私たちが今、かれらに福音を手に向けなければなりません。光明の光を持ち、行かなければなりません。真理の自由さを持って行かねばなりません。
それが、私たちの教会が、ここに建てられた目的なのです。主の関心が私たちの関心になることを望みます。主の愛が私たちの愛になることを願います。ただでもらったのだから、ただで与えよというのが主の恵みです。
今、私たちの回りには、病にかかり、苦しむ霊魂たち、真理を捜し求めてさまよう霊魂たち、彼らにこの一週間の間に近づき福音を伝えてください。皆さんがもっていらっしゃるその愛情で、うえ渇く霊魂たちが皆さんの周りにたくさんいるという事実を取り上げて、お祈りしてください。今日の礼拝に参加した韓国から来たこの若者たちもまさにその目的で来たものと信じます。この一週間は特別にこうした霊魂たちに関心を持ち、イエス様の福音を伝える信徒と私たちがなることをお祈りいたします。
저희 위에 형님은 의류업에 계시는데, 그전에 양복점을 경영했습니다. 그랬더니 온통 사람들의 옷만 보고 다니더라고요. 저 사람은 옷을 잘못 입었다. 어깨가 올라간네, 어쩐네, 또 한번은 미용실을 경영하는 성도하고 길을 가는데, 온통 사람들 머리 이야기 밖에 없었습니다. 그래서 하는 말이 직업은 못 속인다고 하는 것 같습니다.
여러분 제 눈에는 무엇이 보이는지 아십니까! 제가 제일교회로 부임해서 오기 전에는 성전건축이 관심이었습니다. 그래서 좋은 건물이 어디 없나! 하고 차를 타고 가다가도, 길을 걸어가다가도, 혹 길에 부동산이 있으면 어디 좋은 건물 나온 것이 없는가! 온통 그 생각밖에 없었습니다.
그런데 제가 제일교회 부임해 와서 저의 주된 관심은 더 이상 건물에 있지 않습니다. 왜냐하면 이미 우리교회는 건물이 있는 교회당이기 때문에 그렇습니다. 이제 저의 관심은 어떻게 하면 우리교회가 부흥을 할까! 이것이 최대의 관심사입니다. 그래서 예배의 출석에 신경을 많이 쓰고 강조를 하고 있습니다. 그리고, 이렇게 하면 부흥할까! 저렇게 하면 부흥을 할까! 우리 교회 안에 부흥할 수 있는 잠재된 요소들은 무엇인가! 또 부흥을 위해서 바꿔야 할 것은 무엇인가! 이런 생각들로 가득 차 있습니다. 또 일본의 선교사의 한사람으로 어떻게 하면 한 명이라도 더 많은 일본인들에게 복음을 전할 수 있는 기회가 없을까! 한 명이라도 더 교회에 발걸음을 옮기게 할 수 있는 방법은 없을까! 하면서 저 나름대로 기도하면서 이런, 저런, 생각을 해봅니다.
전임목사님들이 그동안 우리제일교회의 부흥을 위해서 일구어 놓으신 이 교회를 어떻게 하면 하나님이 더 기뻐하시고, 즐거워하시는 교회로 만들 수 있을까! 이것이 관심입니다.
그래서 앞으로 제가 엉뚱한 이야기를 혹! 할 수도 있을 것입니다. 그러면 “목사님 왜 그러나!” 하지 마시고 교회부흥을 원하는 제 마음을 여러분들이 아시고, 이해해 주시고 또 도와주시길 바랍니다.
여러분의 눈에는 무엇이 보입니까? 거지의 눈에는 온통 먹을 것과 길거리에 뭐 떨어져있지 않나를 보느라고 땅만 향해 있고. 게으른 사람은 어디 하늘에서 뭐가 안 떨어지나 하고 하늘만 처다 보고 삽니다.
차를 새로 사려고 하는 사람들은 온통 그 눈에는 차밖에 안보입니다. 그 사람의 마음속에 무엇이 있느냐에 따라서 관심 갖는 부분들이 다르다고 하는 말입니다.
그러나 예수를 믿는 우리에게 있어서의 초대의 관심사는 예수님에게 있어야 할 줄로 믿습니다. 어떻게 하면 예수님을 닮아갈 수 있을까! 어떻게 하면 나도 예수님처럼 생각하고, 말하고, 행동할 수 있을까! 이것이 우리의 관심사여야 할 줄로 믿습니다.
부부가 행복하게 살아가기 위해서는 관심사가 같아야 합니다. 부부가 이야기를 하면서 서로들 동문서답을 하고 있다면, 그 가정 속에는 싸움과 다툼이 많을 수밖에 없습니다.
같은 관심을 가져야 한 방향으로 잘 달려갈 수 있습니다. 성경에서는 우리를 신부로 예수님을 신랑으로 비유하고 있습니다. 그러므로 신랑 되신 예수님과 우리가 행복하게 살아가기 위해서는 예수님의 관심사를 우리의 관심사로 생각해야 할 줄로 믿습니다. 그것이 바로 예수님의 마음을 내 마음으로 갖는 것입니다.
우리는 살아가면서 하나님을 내편으로 삼고 살아가려고 하는 사람들이 많습니다. 서로들 하나님을 자기 편으로 끌어들이려고 합니다. 어떤 사람은 비가 오지 않기를 기도하고, 어떤 사람은 비가 오기를 기도하고, 서로들 자기의 기도를 들어달라고 합니다. 어떤 남자가 사자에게 쫓기고 있었습니다. 한참 도망 가다가 남자는 그만 막다른 골목에 다다르고 말았습니다. 긴박해진 남자가 기도를 했습니다. "하나님, 제발 저를 쫓아오는 사자에게 믿음을 주시옵소서." 그러자 한 입에 남자를 잡아먹을 것처럼 달려들던 사자가 갑자기 멈추는 것이었습니다. 남자는 이를 보고 안도의 한숨을 쉬었습니다. 그 순간, 사자가 점잖게 남자 쪽으로 다가와서 기도를 했다. "오늘도 일용할 양식을 주셔서 감사합니다, 아멘." 하더랍니다.
서로들 자기의 편에서만 생각을 합니다. 하나님을 자기편으로만 끌어 들리려고 합니다. 그러니 잘 안됩니다. 하나님이 내편이 되어 주기시도 하지만 어떤 때는 상대방편에 서 계시는 것 같을 때도 있습니다. 이렇게 어떻게 하면 좋겠습니까! 방법은 한가지 있습니다. 우리가 하나님 편으로 가면 됩니다. 내가 하나님 편에 서면 세상에 편합니다. 모든 것이 정리가 됩니다. 해결이 됩니다. 내 생각을 바꾸고, 내 말을 바꾸고, 내 기도를 바꾸고, 내 삶을 바꾸고, 내 관심을 바꾸면 됩니다. 중요한 것은 하나님을 내편으로 만드느냐! 아니냐! 가 중요한 것이 아니라 하나님과 내가 같이 있다는 것이 중요한 것입니다.
여러분! 하나님을 내편으로 만드는 것 보다 내가 하나님 편에 서는 것이 휠씬 쉽고, 빠르고, 간편한 방법이라는 사실을 기억하시길 바랍니다.
그러므로 오늘은 예수님의 관심사를 보시길 바랍니다. 예수님께서 무엇에 관심을 가지고 계시는지, 그리고 우리도 동일한 관심을 가지면 우리는 예수님 편에 서있는 사람들인 줄로 믿습니다.
오늘 본문에서 예수님은 어디에 관심을 가지고 계셨습니까!
이는 가난한자에게 복음을 전하게 하시려고" 말씀하십니다. 여러분 가난한자가 누구입니까? 모자라는 사람들입니다. 누군가의 도움이 필요한 사람들입니다. 부족함을 느끼는 사람들입니다. 은혜가 필요한 사람들입니다. 그러므로 여기서 말하는 가난은 돈이 있느냐! 없느냐의 가난이 아닙니다. 예수님은 산상수훈에서 가난을 말씀하실 때 "심령이 가난한자"에 대해서 말씀을 하셨습니다.
우리의 삶에 있어서 여러분은 모든 것이 만족합니까?
어떤 거지가 교회에 와서 행패를 부립니다. 성경에 가난한사람을 돌보라고 했는데, 왜 돈을 이것밖에 안 주는거야! 하면서 도리어 큰소리를 치고 있습니다. 이런 사람은 가난한 사람이 아닙니다. 또한 자기 자신은 아무것도 안 하면서 남의 손으로 만 살아가려는 사람들도 있습니다. 이런 게으름으로 인해서 어렵게 살아가는 사람들도 가난한 사람들이 아닙니다.
정말로 가난한 사람들은 자기의 힘으로 다 해봤지만 안 되는 사람들입니다. 자신의 능력으로는, 자기의 환경으로는 안 되는 사람들에게 주님은 복음을 전하신다고 말씀하십니다.
복음은 자신의 부족을 느끼는 사람들에게 들려집니다. 모든 것을 다가졌다고 교만한 사람에게는, 나는 부족한 것이 없다고 하는 사람에게는 복음이 들려지지 않습니다.
어떤 부자 청년이 있었습니다. 그 청년은 영생에 대해서 관심을 가지고 있었습니다. 그래서 예수님께 와서 말을 합니다. “선생이여 어떻게 하여야 영생을 얻을수 있습니까” "네 재물을 모두 팔아 가난한 사람에게 주고 나를 좇으라" 예수님의 이 말 한마디에 부자청년은 가진 것이 너무 많아서 근심하며 돌아갔다! 라고 합니다.
가진 것이 너무 많은 사람에게는 복음이 들려지지 않는 것입니다.
우에노 공원에서 매주화요일마다 복음을 전하고 있습니다. 거기에 있는 사람들은 목마른 사람들입니다. 그들은 지금 정상적으로 자기의 부족함이 없는 삶을 살 때에는 관심도 없었던 복음을 이제 자신의 힘으로 어찌할 수 없는 노숙자의 생활이 되니까 복음에 귀를 기울입니다.
여러분이 주님 앞에 가난한 심령을 갖지 않으면 어떤 말씀이 들려져도 마음 속에까지 와 닿지가 않습니다. 똑같은 자리에서 똑같은 복음을 들어도 그것이 심령 속에 들려지는 사람이 있고 귓전에만 맴도는 사람들이 있습니다. 문제는 내가 심령의 가난함을 가지고 있느냐 마음의 교만을 가지고 있느냐에 달려 있는 것입니다. 일주일동안 쉴 틈 없이 일하면서도 갖은 서러움도 당하고 힘들어하면서 수요예배도, 금요기도회도 새벽기도회도 못 가는 자신의 모습을 안타까워하면서 “겨우 나는 주일 이 한시간의 예배시간만이 내가 낼 수 있는 최선의 시간입니다.”라고 한다면 그 사람은 지금 드리고 있는 주일예배 이 한 시간동안 얼마나 영혼에 목마름을 가지고 있을까요. 이런 사람이 복이 있다고 성경은 말합니다. 천국이 저의 것이라고 말씀하십니다.
여러분 심령의 가난함을 가지시기를 바랍니다. 예수님은 심령이 가난한 사람에게 관심이 있다고 합니다.
주님의 또 다른 관심은 포로된 자 들에게 있습니다. 여기서 말하는 포로 된 자 들이라고 하는 것은 전쟁포로들을 의미합니다. 오늘 예수님이 읽으신 말씀은 이사야서의 말씀인데, 이스라엘과 주변국가들과의 그 수많은 전쟁들을 통하여 포로로 잡혀간 많은 이들이 있었는데, 이스라엘을 회복 하실 때에 이 포로 되었던 자들이 자유를 얻게 되리라는 것입니다.
오늘날에는 우리가 영적 전쟁들을 치루고 있는데, 이런 영적 전쟁 속에서 악한 영에게 사로잡혀 포로가 된 사람들이 있습니다. 세상과의 싸움 속에서 세상의 포로 된 자들이 있습니다. 자신의 의지와의 싸움에서 포로 된 자들이 있습니다. 더 구체적으로 말하면 술에 포로 된 자들, 담배에 포로 된 자들, 육신의 정욕에 포로 된 자들, 돈에 포로 된 자들, 도박에 포로 된 자들, 빠찡코에 포로 된 자들, 권력에 포로 된 자들, 그리고 요즘에는 컴퓨터 게임에 포로 된 자들이 있고, 컴퓨터에 포로 된 자들도 있습니다. 스스로 자기 자신을 나는 마귀에게 포로 되었다고 하는 사람들도 있습니다. 이러면 안 되는데, 안 되는데, 하면서도 빠져 들어가는 사람들입니다. 그들은 스스로의 힘으로는 이 포로에서 자유 할 수 없습니다. 외부적이 힘이 있어야지 자유 할 수 있는 사람들이 바로 이 포로 된 자들입니다. 이때에 주님이 그들을 자유 하게 해주시겠다고 말씀하십니다. 그렇습니다. 얼마나 많은 사람들이 예수 안에서 믿음생활을 통해서 지금까지 죄의 포로 되었던 영혼들이 자유 함을 얻은 이들이 얼마나 많은지 모릅니다. 얼마나 많은 간증들이 쏫아져 나오는지 모릅니다. 그전에는 술을 안 먹으면 하루도 살수 없었던 사람들이 이제는 술 이름만 들어도 속이 울렁거리는 사람들도 있습니다.
예수님은 어떤 종류의 포로들도 다 풀어주시는 능력을 가지고 계신 줄로 믿습니다. 예수님이 여러분이 답답해 하고 있는 그 문제를 풀어주시고 자유케 해주십니다.
여러분 어디엔가 포로 되어 스스로의 의지로는 도저히 벗어날 수 없는 상태에 있는 분이 계십니까? 주님이 자유하게 해주십니다. 정말로 온전히 주님을 믿으시길 바랍니다. 주님께 기도하실 바랍니다. 주님이 자유하게 해주십니다.
이때당시에는 소경들이 참 많았던 것 같습니다. 비위생적이 환경들이 그들의 눈을 멀게 한 일들이 많습니다.
그래서 예수님의 사역 속에서 유난히도 눈먼 자들을 고치는 사역이 많이 있었던 것을 우리는 기억합니다.
눈먼 자들은 앞을 보지 못하는 사람들입니다. 눈 단순히 육신의 눈만이 아니고 우리의 영의 눈이 어두워진 사람들도 함께 포함합니다. 영의 눈이 어두워진 사람은 하나님을 보지 못합니다. 하나님은 보지 못하는 사람들은 세상을 마음대로 살아갑니다. 자기 멋대로, 살아갑니다. 하나님이 어디 있냐고 하면서 마음껏 죄를 지으면서 살아갑니다. 그들은 하나님을 두려워하지 않기 때문에 세상에서의 삶 또한 엉망으로 살아갑니다.
돈에 눈이먼 사람들, 명예에 눈이먼 사람들, 성공에 눈이먼 사람들, 이런 사람들은 사람이 사람을 알아보지 못하고 살아갑니다. 그러나 영의 눈을 뜬 사람들은 하나님을 두려워 하면서 살아갑니다. 하늘이 무섭지도 않냐! 하면서 죄를 피해갑니다. 오늘 예수님은 이런 눈먼 자들을 보게 하시겠다고 말씀하십니다.
그렇습니다. 주님은 우리의 영의 눈을 열어주셔서 하나님을 바라보게 만드시겠다고 합니다. 하나님이 창조하신 모든 것의 소중함을 보게 하시겠다고 하십니다. 눈앞에 있는 사람들을 바라볼 수 있게 만들어주십니다. 그래서 괄시하고 천대하고 무시했던 사람들을 존중하고 사랑하고 서로 돕게 만들어 주시겠다는 것입니다.
이스라엘은 지금 로마의 식민지로 있습니다. 그들은 지금 로마의 권력에 눌려 있는 상태입니다. 자신의 의지를 펴지도 못하고 그저 시키면 시키는 대로 해야하는 신세입니다. 자의지가 없습니다. 이 상태는 어떤 상태입니까? 이 땅에 얼마나 많은 사람들이 죄 짐에 눌려서 사는지 모릅니다. 죄의 짐은 우리를 무겁게 만들고 우리의 영혼을 짖눌러 버립니다. 모든 삶의 기력을 상실하게 만들고, 의욕을 상실하게 만들어버립니다. 이 땅에 무기력하게 살아가는 수많은 이들, 그들에게 주님은 자유를 주시겠다고 하십니다. 그 일을 위해서 주님은 십자가에서 죽으심으로 우리들의 모든 죄의 짐을 덜어주셨습니다. 찬송가326장 "죄 짐에 눌린 사람은 다 주께 나오라 주 말씀 의지 할 때에 곧 평안 얻으리, 의지하세, 의지하세 주 의지하세 구하시네 구하시네 곧 구하시네" 그렇습니다.
우리의 어떤 죄 짐도 예수 앞에 나오면 자유 함을 얻습니다. 할렐루야
여러분의 삶 속에 죄 짐으로 인하여 의욕을 상실하신 분들이 있습니까? 인생의 무거운 생활고의 짐으로 눌린 이들이 있습니까? 주님이 자유 하게 해주십니다. 주님 앞에 내려놓으시길 바랍니다.
여러분의 관심은 어디에 있습니까? 오늘 예수님이 관심을 가지시고 지켜보시는 영혼들, 그리고 그 인생의 문제를 해결해주시는 그 예수님의 관심은 바로 우리 자신들입니다. 우리의 모습이 가난하고, 우리의 모습이 눈멀고, 우리의 모습이 포로 되고, 우리의 모습이 눌렸었지 않습니까? 아무도 나를 돌아보지 않고, 아무도 나에게 관심도 없이 이 땅에서 소외된 상태로 살다가 사라질지도 모르던 우리의 인생을 주님을 관심을 가져주셨습니다. 그래서 우리에게 복음을 주시고, 보게 하시고 자유 하게 하셨습니다. 이제 우리는 구원받은 하나님의 자녀가 되어 자유하면 주님을 바라보게 되었습니다.
이 은혜와 은총이 이제 우리가 어떻게 해야 하겠습니까?
이제는 주님이 우리에게 부탁하십니다. 우리의 관심을 이 땅에 가난한 영혼, 눈먼 영혼, 포로 되고 눌린 영혼들에게 주어야 할 줄로 믿습니다.
주님이 우리에게 부탁하신 것이 바로 이것입니다.
이 땅에는 우리의 관심과 사랑을 요구하는 가난한 영혼, 눈 멀고 눌린 영혼들에게 돌려야 합니다. 우리가 이제 그들에게 복음을 들고 가야 합니다. 광명의 빛을 가지고 가야 합니다. 진리의 자유 함을 가지고 가야 합니다.
그것이 우리교회가 이곳에 세워진 목적입니다. 주님의 관심이 우리의 관심이 되시길 바랍니다. 주님의 사랑이 우리의 사랑이 되시길 바랍니다. 거져 받았으니 거저 주라고 하는 것이 주님의 은혜입니다.
이제 우리 주변에 병들고 아파하는 영혼들, 진리를 찾아 헤메이는 영혼들, 그들에게 이 한 주간 닿아가서 복음을 전하시길 바랍니다. 여러분이 가지고 있는 그 사랑에, 목말라 하는 영혼들이 여러분의 주변에 많다는 사실을 가지고 기도하시길 바랍니다. 오늘 예배에 참석한 한국에서 온 이 젊은이들도 바로 그것 때문에 온 줄로 믿습니다. 이 한 주간은 특별히 이런 영혼들에게 관심을 가지고 예수님의 복음을 전해주는 우리 성도들이 되기를 축원합니다.